文禄四年(1595)に、土佐国安芸郡甲浦浜町より
一躰の地蔵像が飛来して、この地目黒に堂を建て
祀られた。
その因を尋ぬれば、安芸郡近郷の猟師らが猟に
行き猪鹿を獲ての帰途日暮れて、甲浦浜町にある
聖徳太子の作と言われる、水引地蔵を祀った
神聖な地蔵堂で猪肉を食し酒盛りをした。漁師が
肉食する気を嫌うなら、地蔵尊にこの地を立ち去る
ようにと言った。
すると、堂が音をたて揺れだした。漁師たちはびっ
くりして恐れて地蔵尊にあやまったが、しばらくして
見ると地蔵尊の姿はなかった。
村中が大騒ぎになり捜しまわって見ると、林の中
に光り輝いて鎮座しておられた。そこで再び堂に安
置したが、翌朝には再びその姿は見えなかった。
南方の方向に紫雲をたなびかせ光明を放って、飛
び去って行くのが見えた。
その地蔵尊は、伊予の国の目黒村に飛来して、
建徳寺に祀られるようになった。ことに旱(ひでり)
続きの年には、寺僧に雨乞いをしてもらうと晴天にな
る日もにわかに曇り、雨が降り出すと伝えられている。
そこで、この地蔵尊は水に関して功徳があると伝え
られ、水引地蔵尊としてその後信仰されている。
この伝説は建徳寺の記録にある説である
一躰の地蔵像が飛来して、この地目黒に堂を建て
祀られた。
その因を尋ぬれば、安芸郡近郷の猟師らが猟に
行き猪鹿を獲ての帰途日暮れて、甲浦浜町にある
聖徳太子の作と言われる、水引地蔵を祀った
神聖な地蔵堂で猪肉を食し酒盛りをした。漁師が
肉食する気を嫌うなら、地蔵尊にこの地を立ち去る
ようにと言った。
すると、堂が音をたて揺れだした。漁師たちはびっ
くりして恐れて地蔵尊にあやまったが、しばらくして
見ると地蔵尊の姿はなかった。
村中が大騒ぎになり捜しまわって見ると、林の中
に光り輝いて鎮座しておられた。そこで再び堂に安
置したが、翌朝には再びその姿は見えなかった。
南方の方向に紫雲をたなびかせ光明を放って、飛
び去って行くのが見えた。
その地蔵尊は、伊予の国の目黒村に飛来して、
建徳寺に祀られるようになった。ことに旱(ひでり)
続きの年には、寺僧に雨乞いをしてもらうと晴天にな
る日もにわかに曇り、雨が降り出すと伝えられている。
そこで、この地蔵尊は水に関して功徳があると伝え
られ、水引地蔵尊としてその後信仰されている。
この伝説は建徳寺の記録にある説である